パワーストーンの効果を信じて、助けられています。先日母にパワーストーンのブレスレットを、プレゼントしました。愛情や、優しさの意味を込めて、ローズクォーツを選びました。少しづつでも、母の気持ちに変化がでてくれると、すごくうれしいです。持っているだけで感謝できるパワーストーン、本当にありがとうございます
皆さん、琥珀が金運をつかさどるパワーストーンだということをご存知でしょうか。自己資産が数億円に達した、知人の家にも大きな琥珀があったので、私には、琥珀にパワーストーンとしての力が、本当にあるのだと思えてしかたありません。知人の家に琥珀があったのが、たとえ偶然だったとしても、私には因果の糸が感じられるような気がします。
宮城県には震災前、“東北の湘南”といわれた別荘地があった。サンライズビーチと呼ばれ、山元町の北端、砂浜に近い700メートル四方の区画に17戸36人が暮らしていた。住民は主に一線を退いた人たちで夏は涼しく、冬は暖かいこの地を終の棲家にしよう、と移ってきた人たちだ。
現在、町内の仮設住宅で暮らす松本ていさん(83)もそんな一人だった。「余生は海の近くがいい」。会社員だった夫の久夫さんの希望で、砂浜から300メートルの場所に居を構えたのは昭和56年のことだった。その久夫さんは平成元年に亡くなり、独り暮らしを続けていた。
地震発生からほぼ1時間後に襲来した大津波は、上を軽トラックが通れるほどの幅があった、高さ6メートルの防波堤を破壊し、海岸防災林をなぎ倒しながら別荘地の住宅の大半をのみ込んで流し去った。
松本さんは、近くにあった県施設の牛橋排水機場の3階に避難して助かった。普段は施錠されている排水機場が補修工事のためにたまたま開いていた偶然に命を救われたのだが、住み慣れた家と「知っている限りでも10人」(松本さん)という隣人を失った。
「もっと助けられなかったか…」
松本さんら住民と排水機場内で一夜を過ごした高橋洋和巡査部長(35)は、強烈な無力感にとらわれていた。
高橋巡査部長は、サンライズビーチから約2キロ離れた駐在所に昨年4月から勤務しており、海岸側が管轄範囲だった。ミニパトを走らせていると、警察無線に高さ10〜15メートルの津波が南三陸町や気仙沼市を襲ったという信じがたい情報が飛び込んでくる。しかし、避難を呼びかけてもほほえみ返すだけの住民もいて、焦りは募るばかりだった。
作業員らを内陸に避難させようと排水機場に来たとき、津波が防波堤を越えるのが見えた。「間に合わない。助からないかもしれない」と思った、という。全員を階上に誘導した後、時計を見ると午後3時50分だった。排水機場の壁にドーンとぶつかった津波は、2階で止まっていた。
翌日から遺体の身元確認が始まった。地元の生き字引だった70代の商店主、独り暮らしの話し好きのおばあちゃん、駐在所近くのふじ幼稚園の園児…。管轄区域約1800世帯の犠牲者は約300人。確認した遺体は200を超えた。
サンライズビーチ周辺は避難指示区域で基本的には立ち入り禁止だ。「助かった人もほとんどが町を出てしまったしね」と松本さんがもらすように、この地が「東北の湘南」と呼ばれた日々は、もう戻ってこないかもしれない。
高橋巡査部長は生と死を分けたほんのわずかな差を考えないわけにはいかなかった。「排水機場に着くのが5分遅かったらもちろんだが、5分早くても、もっと内陸に逃げようとして津波にのまれたはずだ。今回得たいくつもの教訓を後世に残さなければ」と話す。
それは犠牲者に対する生者の思いだけでなく、失われた街への供養でもある。
■気仙大工の技も流された
「何もなくなった。まさに白地図からのスタートだ」。岩手県大船渡市の郷土史家で、沿岸部の伝統建築「気仙大工」の研究に携わってきた平山憲治さん(73)は、がれきの前に立ち尽くしていた。
大船渡市、住田町、陸前高田市の3市町周辺の「気仙地方」は、白い塗り壁につややかな黒い瓦屋根、切り妻と寄せ棟造りを合わせた「入り母屋造り」の家々が並んでいた。地元の森林資源を生かした伝統建築の技術を伝える「気仙大工」の技だ。津波はそんな家々を押し流し、「気仙の景観も文化も失われる」(平山さん)ほど深い傷痕を残していった。
気仙地方3市町の林野率はいずれも80%以上(平成22年、農林業センサス)で、この恩恵を受けてきたのが気仙大工だった。
宮大工として神社仏閣の建築技術を持ちながら、洋風建築なども手がける幅の広い技術。住田町では昭和50年代前半ごろまでは約400人の気仙大工がしのぎを削っていたという。
木を組み合わせることでくぎなどの金具をほとんど使わないため、潮風に強く、特に沿岸部の漁師たちに支持された。宮大工ならではの豪華な装飾や造りを施す家もあり、漁師たちの間では「気仙大工の家以外は家じゃねえ」と言われるほど大切な文化だった。
大工の父にならい、高校卒業から見習いを始めた平山さんは、すぐに気仙大工の歴史の深さに興味を持った。「古い建物をたどると、大工の人生や思い、時代の雰囲気が伝わってくるようだった」という。
気仙大工の歴史は口伝だった。津波はそんな地域の誇りをのみ込み、破壊した。平山さんは震災後、陸前高田市で建物を探したが大半が流失していた。他の大工が二度とまねできないような技巧が凝らされた優れた建物も多く、記憶を頼りに文書や図柄で書き残そうと試みるが、それですべてが伝わりきるはずはない。「津波は多くの人命だけでなく、地域の歴史まで奪うのか」
「気仙大工の里」として有名な住田町と森林組合などが共同出資で設立し、多くの大工を抱える第三セクター「住田住宅産業」の佐々木一彦社長は8月に入ってから不安が消えない。震災で家を流された人のどのくらいが、以前の入り母屋に建て替えるのか。「伝統建築が減れば、技術の伝承も難しくなる」という。
同町は大工の手による迅速な仮設住宅建設で全国を驚かせた。インフラが壊滅状態だった震災直後、地元産の木材を使って材料不足を克服。材料から技術までがそろう自己完結した仕組みの強みが注目された。だが、仮設建設ラッシュが過ぎ、冷静に周囲を見ると、気仙大工の弱体化を招きかねない現実があった。
気仙大工の伝統建築は、大手メーカーと比べると価格は2〜3倍、建築期間も約半年かかる。威勢を誇るような外装よりも内装の充実を選ぶ人々も増え、昭和50年代前半から入り母屋造りの発注は激減。今では新築はほとんどなく、古い家の改修やリフォームが主だった。「仮設から出たら、みんな近代住宅か」。一変した復興後の町の景観が目に見えるようだった。
「まるで芸術品のようだったよ」。同町の大工、菊田富祐さん(59)は楽しげに語る。大工の棟梁(とうりょう)と家主が相談しながら家を造り上げる充実感は何にも代えがたい。しかし自身が伝統建築に関わったのは、もう20年以上も前だ。「経験抜きで技術は継承できっこない。家がなくなれば、技術もなくなるさ。仕方ないけど、寂しいものだよ」
震災に消されてしまいそうな伝統の技に対し、どんな弔いができるのだろうか。すくすく成長中看護師(12):転職?に役立つ情報(石田征広、渡辺陽子)
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